日本酸素ホールディングスのあゆみ

日本酸素ホールディングスのあゆみ

年表画像

日本工業化の幕開け(1910年~1980年)

1910

明治43年

日本酸素合資会社を設立

創業者のひとり、山口武彦氏(現:アズビル株式会社(旧・山武商会)、現・日本精工株式会社の創業者)が、当時の日本銀行副総裁、高橋是清氏(後の内閣総理大臣)に「酸素事業を始めたいが、私一人では資金が足りない」と相談しました。「原料は空気だ」との説明に高橋氏は関心を示し、他の日銀役員とともに出資を決め、日本酸素合資会社が設立されました。

創業者山口武彦の画像

時代背景

日本の産業は、紡績業を中心とした軽工業の時代でした。

ヨーロッパでも酸素製造が工業化されはじめます。

1918

大正7年

日本酸素株式会社に改称

第一次世界大戦による好景気を迎え、鉱工業の発展とともに事業規模は拡大し、1918年に日本酸素株式会社に改称しました。

順調に事業が拡大した日本酸素合資会社の本社社屋

東洋酸素株式会社 1918-1994

東洋酸素株式会社 設立

和田嘉衡氏(現・長野計器(株)、旧東京計器の創業者)が発起人となり、石井太吉氏((株)石井鐵工所の創業者)等が発足に関わりました。大戦後に迎えた鉄鋼・金属加工関連産業の隆盛に合わせて、国内の酸素需要は急激に高まったことを契機に、将来の国家、工業界、衛生界の発展のために設立されました。

日本は大戦景気を迎え鉱工業生産の発展とともに酸素の需要が急増しました。

スペインかぜが流行、日本酸素本社前に酸素を求める人の行列ができました。

1935

昭和10年

国産第1号の空気分離装置が完成

酸素を製造するための空気分離装置を、当社で初めて国産化に成功しました。

酸素製造装置の写真

1946

昭和21年

大陽酸素株式会社 1946-1994

大陽酸素株式会社を設立

戦時中、潜水艦の艦長であった川口源兵衛氏が、酸素魚雷や潜水艦内吸入ガス用としての酸素製造のための酸素発生装置を元手として設立し、酸素供給事業を開始しました。なお、社名の「大陽」の大は、発起人のひとりである橋本小介氏の提案で、字画の験担ぎで採用したものです。

戦後、製鉄の過程で酸素を送り込む酸素製鋼法が普及し、酸素は利用価値を増しました。

地下鉄丸ノ内線開業(1954年)

三種の神器(白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫)の普及

1960年代

希少資源ヘリウムガスの本格輸入販売を開始

1964年から本格的にヘリウムガスの輸入販売を開始しました。現在にいたるまで、食品、エネルギー、通信、交通、宇宙、海洋開発など幅広い分野に欠かせないガスとして使用されています。

ヘリウム利用法のイメージ写真(ガス風船)

戦後の高度成長期

冷凍食品の普及

1964

昭和39年

オンサイトプラント方式の第1号、周南工場を開設

オンサイトプラント方式の第1号である周南工場(現・周南酸素株式会社)を開設しました。オンサイトプラント方式は、産業ガスを大量消費する企業の工場に隣接して、空気分離装置を建設し、パイプラインでガスを供給する形態です。 この方式により、日本の高度経済成長を牽引した大型製鉄所や石油化学コンビナートなどへ、大量にガスを安定供給することができるようになりました。 こうして現在に至るまでオンサイトプラントの導入が進み、国内シェア1位を確保する大きな要因となりました。

オンサイトプラント第1号の周南工場

石油化学産業では、保安用途の窒素(不活性ガス)が使用され始めました。

東名高速道路開通 (1968年)

1970年代

半導体関連ガス事業の展開

1970年代ごろから、日本の電子産業でシリコンが採用されるようになりました。その動向を察知し、シリコン半導体の製造プロセスで必要な電子材料ガスの開発にいち早く着手、エレクトロニクス市場での地位を確立することができました。

半導体、非鉄・金属、宇宙・航空業界では、製造プロセスに酸素、窒素、アルゴン等を使用されるようになります。

その他、分光分析用、ロケット燃料としての使用もはじまりました。

1978

昭和53年

世界初のステンレス製真空断熱魔法びんを商品化

世界で初めて、真空技術や特殊溶接を利用したステンス製魔法びんを製品化しました。現在も 「サーモス」ブランドとして発展し、世界中で愛用される製品ラインナップを揃えました。

新東京国際空港(成田国際空港)の開港